*あれはいつだったろうかね。たしか二年ほど前、秋から冬に移り変わる頃のことだったと思う。ともかく、大学生になって一人暮らしを始めたたぬきにとって、トラウマ確定の事件が起こったん。前回のトラウマにまつわる記事で予告したお話です。
*その日、たぬきは学校に行き、普通に授業を受けて後、帰路に着いていた。我が家は相模原駅から徒歩七分。普段はブックオフやらなんやらと立ち寄るものだが、その日は寒かったし早く帰りてぇ、ってんで特に寄り道もせず、そのまま真っすぐ家を目指したん。とある角を曲がり、そのまま少し直進、その次の角を左に折れるのがたぬきの帰り道。と、たぬきが向かう方向のちょいと先に、えんじ色のジャンパーを着た男がポケットに手を突っ込んでのろのろ歩いておる。実にゆったりとしたペースで。周囲にその他の人影は見当たらない。とはいえ、通行人なんて平素は気にも留めんわな、こっちは早々に帰りたいもんだし、普通にその人の横を追い越そうとして、足を早めるたぬき。もう横一線に並ぶか、という時になって、その男の呼吸がやたら荒いことに気がついたん。文章でどの程度伝わるかは分からんが、ふしゅー、ふしゅー、といった感じ。それでもたぬきは、別段そこまで怪しいとかは思わなかった。この人はえらい呼吸が激しいお人やなぁ、ま、寒いしね。ってな感じで、颯爽とその人を追い越した。
*直後、たぬきは戦慄する。追い越した途端、その男の呼吸が、ふしゅ、ふしゅるる、ぶしゅ、などと輪をかけて激しくなり、次第に何か声に出して喋り始めたのであって、なんだ一体、何を一人で喋ってるんだこの男は、と注意を耳に傾けると、ふしゅ、ぶしゅるる、こ…す。ぶしゅ、ふしゅ、ころず。ころじゅ。ぶしゃ、ころす。殺す。男の呼吸に紛れた「殺す」という言葉、それがたぬきの背筋を冷たく舐めた。
*なんてこった、この男は危険だ。瞬間、そう察知したたぬきは、徐々に歩くペースをあげ、追いつかれるまい、殺されるまいと半ば競歩のようになりながら角を曲がる。家までは、その次の角をもう一回右折せんければならない、だがあと少し。恐怖におののいたたぬきの頭脳には、ただもう、とにかく逃げる、という手段しか浮かんで来なかった。少しは距離の差を付けたはず、大丈夫、いける。後ろからは相変わらず迫り来る男の足音と、声。低く掠れた、中心部が空洞で、耳に届くのは周縁部の倍音ばっかりみたいな、薄気味悪い声。たまらなくなって、次の角までもう半ば、というところで一瞬振り向いた。したら男もペースをあげていて、その差は5メートル程しかついていなかった。さらに悪寒。
*頭のどっかで、挑発するのは逆効果、という念があったので、徐々に徐々にペースを釣り上げていく戦法を取ったたぬきだったが、最後の角を曲がったあたりから一気にスパートをかけたん。冷静さに恐怖が打ち勝って、走り出さずにはいられなかった。もう後ろを振り返る勇気もない。一心不乱に駆け出して、マンションの玄関にまで到達。この時点で既に右手に鍵を用意して、即座に家に逃げ込もうと算段を立てていた。足音は止まず、むしろその速度を早め、背後からたぬきを攻め立てる。たぬきの部屋はマンションの一階、奥からニ番目だ。ただただそこへ向かって走った。扉の前まで辿り着き、鍵をねじ込んでドアを開く。ここでようやく、確認のため入り口の方へ向き直った。男はマンションの玄関を少し入ったあたりまで追いかけて来ていた。男の、ポケットから出した両手が、夢中に空を切っていたのを覚えている。心臓がキンとした。焦燥。すかさずドアを閉め、鍵をかける。ようやくの安堵。もう追って来ようがなんだろうが、たぬきに触れられることはまずないと確信、少しくその場で虚脱、数分後、まさかとは思いつつ、ドアの覗き穴から外の様子を伺った。
*いた。男はそこにいた。ドアの向かい、男は壁に寄りかかってこちらをじっと見つめていた。両手をだらんとした格好で。血の気が引いた。何時までそこに居座る気だ。何故たぬきをそこまで執拗に恨むのだ。何故。追い越されたことに腹を立てた、くらいしか考えられず、かといってそんなことで殺されちゃっちゃあたまったもんではない。疑念と恐怖とが頭脳をぐるぐると駆け回り、いささか錯乱、全身が徐々にぐったりとくる。
*部屋に戻ってからも、何をするにも男に見つめられているような、ヌルッと纏わりつくような恐怖があった。それも理不尽で一方的な恐怖。なんたって、怖いもんだからその日は二度と覗き穴には近づかなかったけど、もしかしたら未だにドアの外では男が粘着、こっちを見つめているかもしれんのである。気付くと、時刻は夜の九時をまわっていた。もう、寝る。寝るしか出来ない。と、半ば自棄の気持ちでベッドに倒れ込んだん。暫くは恐怖のため寝付けなかったが、そのうち心理的な疲労が一挙に襲って来て、たぬきは無事に眠りに就いたのだった。
*翌朝、また覗き穴から、恐る恐ると外の様子を伺った。正直、恐怖でそれを決心するまで30分を要した。男はそこにはもういなかった。跡形もなく。忽然と。恐る恐る家を出て、必死で走りながら、昨日とは異なるルートで学校に向かうべく電車に乗った。それ以降、特記するような事件は幸いにも起こってません。今では全くの平和。恐怖の爪痕が残った平和。
*という事件以降、たぬきは覗き穴が恐ろしいのです。あの男が脳裏をかすめるから。あと、他人とのすれ違いざまも少しテンパってしまいます。といった、たぬきの人生で最大級のトラウマ話でございました。って、書いてたら恐怖がぶり返してきたじゃねぇか。寝る。もう寝る。いやでもまだ早い。でも。みなさんもいろいろ留意して、無事な生活を送ってくりゃれ。