七月四日、水曜日。曇天。時折、雨。
その日、ぼくは浅草へ向かった。鈍行列車で。傘も持たずに。
浅草では、ぼくの爺ちゃんと婆ちゃんが暮らしている。
いや、正確に言うと、爺ちゃんは家で暮らしていて、
婆ちゃんは近所の病院に入院している。
婆ちゃんは入院している。入院し続けている。
もうどれくらい、病院で生活しているのだろう。
ぼくは、それを思い出さない。
覚えているけれど、思い出さない。
ぼくは、お婆ちゃんっ子だ。
ぼくが時々遊びに行くと、
婆ちゃんは必ず、
めいっぱい気遣ってくれた。
遠かったろうに。
お菓子があるわよ。
飲み物、そこに入ってるわよ。
お腹すいた?すぐご飯にするからね。
ある時、婆ちゃん、タオルある?
とぼくが訊いたら、
ここに入ってるわよ、
と言って、自ら高い戸棚の中を探し始めた。
足腰、良くないのに。
いいよ、ぼくが取る。
と言っても、婆ちゃんは決してやめなかった。
そんな、婆ちゃん。
また別の、ぼくが遊びに行ったときの夜、
ぼくが少し外出している間に、
婆ちゃんは階段で足を滑らせて骨折した。
ぼくが行ったことで疲れさせちゃったかな、
と少し思ったけど、
ぼくが家に居ればもしかしたら、
と少し思ったけど、
婆ちゃんは階段で足を滑らせて骨折した、
それはもう起こってしまったことで、
もう起こってしまったことはもう起こってしまったことで、
とにもかくにもすぐに病院に駆けつけた。
思ったより、婆ちゃんは元気だった。
元気、という言葉は、
状況に似つかわしくないけれど、
その時ぼくは、
思ったより、元気だ。
そう思った。
それから暫く、
婆ちゃんは嫌々ながらもリハビリに励み、
じきに一人で歩けるようになった。
持ち物に木製の杖が一本増えて、
少し背が曲がった以外は、
以前と変わらない婆ちゃんに戻った。
それから少し暫くして、
婆ちゃんはまた階段で足を滑らせて二回目の骨折をした。
その時ぼくは学校に居たけれど、
知らせを聞いて次の日、
すぐに浅草に向かっていた。
年寄りにとって、
二回の骨折とはかなり高いハードルだった。
それ以来、婆ちゃんは、
以前の姿がまるで嘘だったんじゃないか、
そう疑ってしまうくらい、
みるみる弱っていった。
食事は喉を通らなくなり、
喋る言葉はほとんど聴き取れなくなった。
あれから、何度もお見舞いに行っている。
それは、実は辛いことでもある。
会いにいく度に、
婆ちゃんは少しずつ、
ほんの少しずつ弱っていっているように見える。
それは嘘みたいな本当で、
それはぼくにとっては、辛い本当だ。
本当に辛いのは、婆ちゃんに違いない。
そう思って、ぼくは本当と向き合う。
たまに、こうなってしまった原因の一部には、
ぼくがあるんじゃないのかとさえ思う。
分からない。
分からないけど、
それを言っても本当は本当に変わりはなくて、
ぼくは婆ちゃんに会いにいく。
そのなかにどれくらい、
贖罪という意味合いが含まれているのか。
それは出来るだけ、少なくあって欲しいと思う。
お見舞いに行くと、
ぼくはそんな婆ちゃんの手を握る。
そして、声をかける。
会いに来たよ。調子はどう?
聞かなくても、分かっている。
だけど、ぼくはそう尋ねる。
学校であったことや、
最近の生活。
今日の天気だったり、
外の様子だったり、
そんないろいろを、ぼくは話す。
婆ちゃんは、言葉になりそうでならない声、
それで相槌を打つ。
帰り際、ぼくは必ず婆ちゃんと握手をする。
ぼくの力を分けてあげたい、
柄にも無く、そんなことを思いながら。
ぼくに出来ることはなんだろうか。
七月四日、水曜日。曇天。時折、雨。
その日、ぼくは浅草へ向かった。鈍行列車で。傘も持たずに。
病院で爺ちゃんと待ち合わせをしていた。
少し遅れてぼくが到着すると、
爺ちゃんが、
婆ちゃんに布団を被せているところだった。
久しぶり、元気?
生粋の江戸っ子である爺ちゃんは、笑って言う。
俺はな。
でもこいつは、ちょっと調子悪ぃみてぇなんだよ。
婆ちゃんは、必死で呼吸しているように見えた。
いつもより、苦しそうだ。
ぼくは、自分の心臓が少し大きめに揺れたのを感じた。
爺ちゃんが、ぼくが来たことを告げる。
ぼくは婆ちゃんの手を握って、
久しぶりって呼びかける。
だけど、返事らしい返事はない。
今日はずっとこんな感じなんだよ。
ぼくには、
そっか、
としか言うことが見つからなかった。
それからすぐ、
爺ちゃんが飯でも食いにいこう、
と言ってくれて、
いつものように婆ちゃんと握手をして、
僕たちは病院を後にした。
爺ちゃんが言うことには、
婆ちゃんの今日の状態は「たまたま」だ、
ということだった。
それは、「いつも」じゃないってこと。
でも、「はじめて」でもないってこと。
今までにもあって、これからもある、そういうことだ。
婆ちゃんは、ぼくが来たことには、
ほとんど気付いていないのだろう。
爺ちゃんは、
少し歳を取ったけど、
元気そうだった。
病院のエレベーターで乗り合わせた、
少し惚けてしまっている老人が降りた後、
あんなのにいちいち構ってたら、日が暮れちまうよ。
と爺ちゃんは言った。
この江戸っ子ならではの言い回しが、
爺ちゃんが健在である何よりの証拠だ。
ぼくは、思わず笑う。
ぼくと爺ちゃんは寿司屋に入った。
ぼくは翌日、寿司を食べる予定があったけど、
爺ちゃんの酒の相手になれたらいい、
そう思って寿司屋に入った。
爺ちゃんは元気だ。
だけど、ぼくには分かる。
爺ちゃんも、
婆ちゃんと同じくらい大変だってことが。
爺ちゃんは、
一人で自分が食べる為だけにご飯を作って、
一人で一日を過ごして、
一人で酒を飲む。
そして毎日、婆ちゃんに会いにいく。
酒を酌み交わしながら、
同じ「一人暮らし」のぼくたちは、
その苦労について話したり、
寿司について話したり、
久しぶりにたくさん話をした。
途中、
婆ちゃんもあんなになっちまって、
頭が痛ぇよ。
と爺ちゃんがこぼした一言が、
ぼくの頭の中でぐるぐる回っていた。
帰り際、爺ちゃんは
いつもより余計に飲んじまったよ、
と上機嫌で話していた。
ぼくにも出来ることはある。
それは、多分ぼくにしか出来ないことで、
ぼくはそれをやれるだけやろう、
そう思った。
田原町の交差点で、
ぼくたちは別れた。
しっかりと、
握手をして。